こんにちは。東朋子です。
私たちのような仕事は、そのまちの民度が事業に大きく影響を及ぼす。ということは、職員のモチベートにも、大きく関わるということだ。
私は、尼崎市の住民だが、西宮で事業をしていて
本当にこのまちで仕事ができていることを誇りに思うことが
多くある。
先日、こんなことがあった。
ある公的な資金から運営されている任意団体の方から相談を受けた。イベントをしたいが市からもらっているお金では足りないので
他から助成金でももらえないかという相談である。
私たち「こみさぽ」は、よくこういう相談を受ける。
その時に民度の違いが明確化することがよくある。
特に「ミッション」についてだ。
私はこの「ミッション」というやつにうるさい。
「そもそもね・・・」ということに大変こだわる。
例えば、公民館。
公民館は、
「現在ある公民館は戦前に文部省の成人教育課長であった松尾友雄が唱えた「社会教育館」構想を母胎として文部省の公民教育課長であった寺中作雄によって構想されたものが原型となっている。1946年より日本の民主化政策に伴って各地に公民館設置が行われ、1949年の社会教育法制定によって法的に位置づけられた。公民館制度は戦前からの地域施設設置運動と住民の参加システムを生かす形で住民の企画・運営への直接参加が行われるなど、地域における住民の学習権保障の場として評価されている。」
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
である。
最近、ボランタリーな活動が盛んで、よくセミナーや講座、講演も各々のミッションを掲げ、同種・同様の事業がたくさん行われている。
市民から見るその「セミナー・講座・講演など」は、どれをとってもほぼ変わらないように見える。
参加者にとっては「学習権保障の場」として公民館の講座に参加しているのではないかもしれない。
でも、少なくとも、その講座を創るほうは考えなければならない。
もちろん、根拠法にのっとった事業が当然である。
最近の助成金では、その枠組みが大変あいまいで、
ボランタリーな活動に対して熟慮せず助成しているケースも
多いように感じる。
選考委員の質もあるのだろうが、助成金の出す側の見識も問われる。何が大切で、何を目的に、どんな内容で、かつその団体に貴重な資金を拠出する合理的な理由があるのかを峻別する時の力量が必要だ。
西宮というまちには、そこかしこにその「眼力」という隠しだまをもっている。
というか、市民の民度が高いのだ。
その民度の高さが私を癒す。
余談だか、尼崎の市民まつりを、地方巡業と一緒にやろうという話が持ち上がっている。というか持ち上げようとしている動きがある。名誉のためにいっておくが、私は信じられないと思っている。
何のための「市民まつり」か。
自ら手をあげて協議会のメンバーになって、他は手を挙げなかったのだから、私たち約数十人が決定してもいいのだという人もいた。
もちろん、最終的には私たちが決定しなければどうにもならないが、私物化になっては絶対いけない。
尼崎市民まつりがというわけではないが、
自由に動かせると勘違いしている人たちが
自らの感情や利権や自己顕示力で、公的な事業を動かしてはいけない。そんなこと、ありえない。
熟考を重ね、ミッションに沿っているかどうか、そもそもそれでいいのか、市民に自身をもって説明ができるのか、それは金のことではない、大切なのは「目的」だ。「そもそも論」だ。
どうとでも取れる「規約」をいいことに、歪曲して理解して、私物化してはならない。
どんなことでもそうだ。
西宮はわたしを癒してくれるわけは、その断固としたプライドと民度の高さ、見識、眼力のチカラがあるからである。
このまちで仕事できることは幸せなことだ。