こんにちは。東朋子です。
最近、大変ありがたいことに、こみさぽに集う学生達の積極的な姿勢に背中を押されて、日々老体にむち打つことが多くなってきている。
こみさぽの方針が明確になり始めた2年ほど前、
「学生さん達がこんなに集まるのだから、ここには学生にとって魅力的な何かがあるのだと思う。学生と言えば
こみさぽと言われるような事業を立ち上げていきましょう。」と、協働で事業を推進してくれた方がいらした。今でも困ったときには力を貸していただいています。本当に感謝してもしきれない。
その後、学生達と共に様々な事業に取り組む中で、あることに気がついた。
それは「学力と学ぶことのできる力」について考えさせられることが多くなったことだ。
今の日本の子供達は、学ぼうと思えばその機会を得ることができ、その手法も多岐にわたる。
また、学ぶべき時に、学べるように、様々な工夫もなされている。インターネットもその一つだし、人との出会いもそうだが、本人が望むか望まないかだけの問題で、昔ほど学ぶことは難しくないように感じる。
それなのに、学生の「学ぶ力」格差は顕著だ。
やろうと思えばできるはずだが、
力が出せない学生をちらほら見ることがある。
なにが足りないのかを判断できる力。
理解力。要約力。問題解決力。交渉力。忍耐力。等々。
私はアカデミックな専門分野を教えているわけではないが、私自身が最も大切だと思う「社会で生き抜く術」のようなものを伝承していると自負している。
たとえば、突発的に起こる最も不利な状況を瞬時に打開するために、どう動けばよいか。
誰を疑うわけではないが、判断するために最低限知っておくべき情報をどのように得るか。
自らが望むべき道に緩やかに人々を導くときの手法
など、学校の勉強とは全く違う「社会とのつながり」を肌で感じて、そのうえで慕ってくれる学生も多い。
そんな学生達の会話の中で気になるキーワードが増えてきている。
「日本語が通じない」
「議論がかみ合わない」
「評論家が多すぎて、実働に結びつかない」
そして、最も多いのが
「結論が投げやりで、かつ無責任である」という意見だ。
対学生に投げられている言葉なのだが
そう言われて、当該学生を注意して見ていると
仕事を担うところは決して手を挙げず、しかし、意見は
単文で結論づける子に向かって発せられている。
「いいじゃん、それで。」
「はいはい。オッケーオッケー。」
「私、こっち。」
選んだ理由や選んだ限りは自分で担えるところを加えて発言する等の配慮は全くない。
そうして決まった結論に従って動こうとすると、
彼らはそこにはいない。
言っただけで、姿を消すのである。
しかし、彼らは役目を果たしたと思っている。
具体的な例をあげると
・企画書をできるだけ早く書き上げなければならない
とする。
10人程度の様々な大学から集まってくる学生だから、
学習環境・友人関係・趣味・生活スタイルまで様々。
みんなの意見を盛り込むのは不可能に近い。
意見を一通り述べて、現実的なものを取捨選択していく
作業にうつることになる。
意見はそれなりに活発。
しかし、後半にさしかかり、企画書を書く段階になると
同じ学生ばかりが書いている。
想像できただろうか。
書くことができないのである。
まったく。
口で語るほど書くことができない。
だから、結論を急ぎ、投げやりなのであり、無責任なのである。
思考は「好き」か「嫌い」なのである。
そんなに複雑なことを考えたことがないのかもしれない。
その格差たるや年々開いてきているから恐ろしい。
「学ぶ」ことに力が必要なのは当然だが、その力はどのように養われていくのだろう。
時代に逆行しているかもしれないけれど、
私は「やるべき時に、やるべきことを、やるべき量やってきた者」にだけ備わるように思う。
例えば、勉強は、学業が本分である時にやるべきだし、
スポーツも、仕事も、家庭も、恋愛も、もうなにもかもである。
辞書を引くと、「本分」とは「本来なすべきつとめ」らしい。
本来なすべきつとめが何かわからないなんてことはない。
気がつかないほど、鈍感になっては話にならない。
人にはそれぞれ役目があり、その役目を全うできるように日々努力を重ねる。
また、その役目は立場によって異なる。
時に母になり、時に娘になり、時に理事長になり、時に社会人になり、時に妹になり、時に弟子になり、時に協力者になる。
私でもこのくらいはすぐに出てくるのだから、
各人考えればもっともっと多くの役割を担って生きているのを感じてもらえるだろう。
その折々に「本来なすべきつとめ」があり、
その折々に本分を全うしようと努力する。
やはり、学生の時は学生としての本分を全うした方がよい。後々、醸し出されてくる「本分の未達感」は本人が気づかなくても周りは気づいている。
そういう私も本分を全うし損ねたことが何度もある。
だからこそ、改めて自らの戒めのためにも、そう思うこ頃なのである。