こんにちは。東朋子です。
毎週、月曜日。
私の息子と娘が事務所に訪れ、
学校の勉強や当法人の活動のお手伝いをしてくれている。
私は、母らしくない母のようで、
一般的な「ママ」という存在より、
当たり前のように仕事をしている「母」が
彼らの「母親像」なのだと感じることがよくある。
先日、ニュースで
「代理ミュンヒハウゼン症候群」という言葉をはじめて耳にした。
mytown.asahi.com/kyoto/news.php?k_id=27000001005110001
周囲から理想的な母親に見られたい
子の看病に尽くす母と見られたい
私はその症候群のような症状はないが、そう思われたいと思っていたことは間違いない。
しかし、過去のことだ。
女子も男子も、子どもを授かった瞬間から「母」となり、「父」となる。資格試験があるわけではなく、適正試験があるわけでもない。
子どもを授かった時は、急激に「母」になりたかった。
私の場合は、自分の母のような面倒見の良い、あたたかい母になりたかった。
その時を思い出すと、結構背伸びをしていたかもしれない。
子どもが自ら成長していく過程で覚えていくような試練にさえ、
口を挟み、守り通すことが「母」である証のように思っていた。
思い返すと恥ずかしいことも多い。
今はというと、そのままの自分を「母」と呼んでくれる
彼らを尊敬する時さえあるほどだ。
子どもは大人たちよりも、大きな包容力で包んでくれる。
彼らの方が柔軟な発想で、判断し、生きていく。
ちょっと前は、誕生日プレゼントを買って渡した時、
もっと喜んで、ママに感謝の気持ちを伝えて欲しいとか、
わけの分からない「ご満悦」な気持ちを味わいたいなんて
思っていた。
きっと、寺坂も同じだ。
最近分かったことがある。
「生まれてきてくれてありがとう」と
素直に心からそう思えている自分がいるということだ。
見返りを求める愛情なんて、愛ではない。
誰かから評価されたいための愛なんて、愛じゃない。
娘の誕生日プレゼントを
月曜日までにそろえて、わざわざラッピングしてリボンをかける
主人の娘への愛情は、なんの見返りも求めていない。
もしかしたら、ありがとうと言われなくてもいいのかもしれない。
「生まれてくれてありがとう」の気持ちを、カタチにする時
あなたの欲しかったものならいいよね、という思いだけだ。
どんどん生意気になり、意地悪も言うし、
憎まれ口もたたく。
それでも、私は娘と息子を食べたいくらいかわいいと思っている。
言葉どおり「生まれてきてくれてありがとう」な気分だ。